【江戸雑学草子】 第18回
2003年12月03日
歳末風景(2)貨幣いろいろ
「江戸っ子は宵越しの金は持たない」といわれるが、
こんな川柳がある。
「江戸っ子の 生まれそこない 金を貯め」
せっせと、貯蓄に精を出している人もあった事を証明している。
お金のやりくりは、台所を預かるご新造さんの腕の見せどころで、
江戸っ子だから、あまりけちけちは出来ないし、
パーッと使っちゃうと節季の支払いに困る。
師走は、節季払いの集金月でもある。
節季払いとは、盆と暮れに、年2回、まとめて支払いをする事。
江戸時代に、路地に入ってくる棒振りの行商人への支払いは、その場で現
金だっただろうが、掛けで買うことが多かった。
掛け売りが、盛んになった理由に、貨幣の多様性と、紙幣が無く、その重
さのため持ち運びが不便で、まとめて支払いをした方が便利だった事が上
げられる。
お金の種類だが、
まず、「両」は、誰でもご存知だろう。
その下に「分」、さらにその下に「朱」。
一両が、四分。一分が四朱で4進法だから、一両は十六朱になる。
この比率は、常に一定して変わることはない。
一両は、小判で金貨、一分と一朱は、金貨も銀貨もあり、その他に二分と
二朱の金銀貨があった。
もう一つ、真ん中に四角い穴のあいた一文銭と、同じ形で裏に波の模様の
ついたやや大きめの四文銭がある。
これは銅貨で、日常の買い物ではいちばんよく使われるのだが、この「文
」と「両」の交換比率は一定していなかった。
銭相場というのが立って、毎日変わる。
江戸時代のはじめには、一両を四千文(四貫文)でスタートしたが、次第
に安くなり(インフレが進み)、六千文(六貫文)ぐらいの時が多かった
ようだ。
江戸時代の最後の慶応年間になるとさらに下落してついに、10貫文まで
になってしまった。
二八そばが、十六とか、江戸時代の物の値段に、4の倍数が多かったのは
、四文銭が広く使われていたからである。
しかし、これだけ貨幣単位が他種類あると、おつりが大変だろうと想像す
るが、...。
たとえば、五十文と価格表示された物は、銅貨五十文で、
二朱としてあれば、金あるいは銀貨で支払うのが、原則であったそうな。
そのために、両替屋があり、江戸市中でも300軒を超えた。
五十文の買い物で、どうしても、金や銀貨しか持ち合わせが無い場合、ち
ょっとした商店は、換算表を持っており、おつりの計算は簡単に出来たが
、それに足りる銅貨が無ければ、断られてもしょうがない。
銅貨で百文単位の支払いをする時は、いちいち数えていては手間がかかる
ので、百緡(さし)二百緡と言って、ひもに百文あるいは二百文ずつまと
めて通したので受払をした。
この場合、数える手間として、四文ずつ減らしているから、実際は九十六
文が百文として通用した。
注)両替手数料が、4%であった事を示している。
寛永通宝一文銭1枚の目方は約3gだから、96枚で290g弱ある。
三百文の買い物といっても、約1kgの重さの銅貨で支払わなくてはなら
ないから、月末や節季にまとめてはらう掛け売りが普通になったのは当然
だ。
三越の前身である、三井越後屋は、掛け値なしの現金払いで、
掛け値、つまり掛け売りの利息分を安くして人気があったが、
値段が十両単位の呉服では、釣り銭も多くはいらなかっただろう。
まぁ、当時の越後屋のヒット商品は、仕立ての際に出る端切れだったが、
こちらは「文」単位でどっさり売上があったそうだ。
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