【江戸雑学草子】 第22回
2003年12月12日
遠山の金さん
東京駅八重洲北口を出ると、左側に国際観光会館がある。
今は、無人で、取り壊しの準備をしているが、
立て替えの話が出て、30年以上立って後の工事である。
さほど大きなビルでは無いのに、権利関係が複雑で、おいそれと工事が進
められなかったと、噂に聞いた。
そのビルから、道路に突き出した感じで、黒い石作りの碑がある。
東京都教育委員会が立てたもので、
北町奉行所跡と記している。
そこには、遠山の金さんでおなじみの、遠山左衛門尉景元(とおやまさえ
もんのじょうかげもと)(1793〜1855)が奉行を務めていたと書
いてある。
通称が、遠山金四郎で、だから金さんと呼ばれた。
彼が、将軍の日常雑事にたずさわる小納戸(こなんど)となるまでの経歴に
は不明な点が多い。
ただ、彼の父、景晋(かげくに)は、目付、長崎奉行、作事奉行勘定奉行を
歴任し、
景元自身も、小普請奉行(こぶしんぶぎょう)、勘定奉行をへて、天保
11年(1840)北町奉行に就任。
しかし、当時、天保の改革を推し進めていた老中水野忠邦や、南町奉行鳥
居忠輝らと対立した。
景元は株仲間解散令に反対して布達を遅らせたために、差し押さえを命じ
られたり、
町方に大変評判の悪かった改革政治に異をとなえたため町奉行職をはずさ
れたことなどから、「庶民派の金さん」のイメージが出来上がったと言わ
れる。
彼の政談とか、若い頃の話は、享保年間前後の逸話を集めた随筆集「廿日
草(はつかぐさ)」の中の、北町奉行能勢頼一(のせよりかず)の話が下
地になっている。
これを、明治時代になって旧幕臣の中根香亭(なかねこうてい)が「帰雲
子伝(きうんしでん)」の中で景元の話とし、
その後、明治26年(1893)、明治座初演の竹柴其水(たけしばきす
い)「遠山桜天保日記」や、昭和5年(1930)、歌舞伎座初演の岡本
綺堂(おかもときどう)「天保演劇史」などの歌舞伎狂言が評判となり、
広く知られる様になった。
桜吹雪の刺青についても、
「帰雲子伝」には、二の腕から肩にかけて、髪を振り乱し、口に紙切れを
噛みしめている美人の顔が彫られていたとあり、
角田音吉「水野越前守」(博文館、1893)には。「左腕に花紋をゲイ
(黒ヘンに京、刺青)する」と記されているなど、はっきりしない。
景元は、水野忠邦失脚後、弘化2年(1845)に南町奉行として復帰し
、嘉永5年(1852)病気のため辞職。
安政2年(1855)没。63歳。
金さんって、お役人と言うより、骨太の政治家ってイメージですかね?
参考資料:エンカルタ総合大百科(マイクロソフト)
江戸時代館(小学館)
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