【江戸雑学草子】 第25回
2003年12月18日
忠臣蔵
時は元禄15年(1702)12月14日。
記念日よりちょっとずれたタイミングだが、
この時期、赤穂浪士の討ち入りの話題をはずすわけにいかない。
実際、吉良邸に討ち入ったのは、15日未明。
誰もが、深い眠りについていたころ。
当時、吉良邸には、125人ほどの人数がいたが、
そのほとんどは、三方の塀沿いの長屋で寝ていた。
討ち入り直後の物音でも、全員がすぐに目が覚めたわけではないだろう。
最初に長屋から出て行った者は、浪士の槍(やり)と半弓(はんきゅう)
でねらい打ちされ、
長屋の入り口は、封鎖されてしまったので、出て行けなかったし、
また、怖じ気づいた者も少なくなかったろう。
125人もいて、死者が16人、負傷者20名余、と言う数字が、それを
物語っている。
しかも、浪士側の犠牲者はゼロ。
一人、近松勘六が重症をおっただけだった。
幕府目付による、現場検証調書「吉良本所屋敷検使一件」によると、
南小屋役人小屋にて家老小林平八郎
座敷の庭にて用人鳥居理右衛門
台所口にて中小姓清水一学
など、総計16名の死者は、
表門と裏門で応戦した者
長屋から打って出た者
上野介周辺を固めた者で、
短時間(2時間)集中型の局地戦だった。
ところで、
赤穂浪士は一般的には四十七士とよばれるが、実際に吉良邸に討ち入りし
、切腹を命じられたのは46名。
討ち入りの口上書に署名した47名のうち、寺坂吉右衛門がぬけた。
寺坂吉右衛門は、吉田忠左衛門につかえる足軽でもっとも軽輩だった。
寺坂は数え年39歳で討ち入りに参加したが、泉岳寺にひきあげる途中で
姿をけして切腹をまぬがれたわけだ。
彼は、83歳まで生き、墓は他の浪士と同じ泉岳寺にある。
彼が抜けた理由を色々取りざたされているが、
浅野内匠頭長矩の未亡人瑶泉院と、
広島藩にあずけられた浅野長広に結果を報告するため、
とするのが定説だ。
その後、寺坂吉右衛門は、
浪士の遺族の面倒を見たとか、
多くの人によって語られている。
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しかし、血なまぐさい話に、なんかほっとする話題でもある。
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