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【江戸雑学草子】 第36回

2004年02月09日

永代橋

 阪神タイガースが優勝して、

 ファンが戎橋から道頓堀川に飛び込んで、えらい騒ぎでございました。


 在京の球団が優勝して、誰も隅田川には飛び込みません。

 よほどの人じゃないと、橋が高いところにあるんで、おぼれちまいます。

 だから、江戸では、橋の上から身投げする事が多かったんでしょうね。


 身投げじゃなく、なんと1500人もの人が、

 橋から落ちて亡くなった事件がありました。


 文化4年(1807)8月15日のこと。

 雨で順延されていた、富岡八幡の祭礼が、この日行われましたが、

 大勢のお参りの人が、橋の両側から、一時に橋に押し寄せ、

 橋のたもとから12間ほど行ったところで、

 人の重みに耐えかねて瞬く間に橋は崩れ落ちた。


 なぜ、急に人が押し寄せたかは、

 六代目三遊亭円生の落語「永代橋」にくわしい話が出てくる。


 つまり、

 1)11年ぶりのお祭りで、評判を呼び、人が集まった。

 2)午前11時頃、一橋家が舟で永代橋の下を通るので、

   「橋止め」と言って橋の両側を、

   役人達が縄を張って通行規制を引いた。

 3)規制解除とともに、人が押し寄せた。


 まぁ、人は後から来る人に押されるようにして前にでて、

 あれよ、あれよと橋から落ちてしまったンですな。


 これを見た一人のお侍が、

 欄干に登り、刀を振り回したンですよ。

 すると、怖じ気づいた群衆が、後ずさりをはじめたんで、

 それ以上の犠牲者は出なかったと申します。


 機転が利くって、こういうことでしょう。


 落語だけじゃなく、歌舞伎でも、

 河竹黙阿弥《1816〜1893 (文化13年〜明治26年) 》が

 「八幡祭小望月賑」(はちまんまつり よみやの にぎわい)

 と言う芝居を書いていますね。


 今の永代橋は、日本橋川の河口より隅田川の下流側にありますが、

 江戸の時代は、日本橋川より上にあって、今とちょっとずれております。


 その橋の通りを、永代通りと申しますが、

 バブル崩壊の時、通りに面した大企業が相次いで倒産したので、

 「倒産通り」などと、有り難くない名前で、呼ばれていましたね。


 永代続くから永代橋ってンじゃなく、新川と永代島(深川)を

 結ぶからって、そう名付けたそうです。


 享保三年(1718)、永代橋と両国橋が老巧化して掛け替えなければならなく

 なり、財政困難を招いていた幕府は、歴史の深い両国橋だけ残して、

 永代橋は取り壊そうと言うことになった。


 さー、困った。

 これでは、深川だけでなく、日本橋、京橋にとっても

 経済的ダメージが大きいと言うことで、協議の上、

 両岸の町々が維持費を出す「町方持(まちかたもち)」になった。


   ここで、また赤穂浪士の討ち入りの話になるが、

   帰り道に、永代橋を渡ったのは、

   幕府に遠慮して、民営の永代橋を選んだと言う話がある。


   どうやら、元禄十五年当時は、

   まだ町方にその運営が渡っていなかったンですよ。

   それより、浅野家の元屋敷が、今の明石町(聖路加病院)にあり、

   そこに寄るために、永代橋を渡ったのじゃなかろうか。


 橋の落下は、町方持になった後、

 老巧化した橋の修繕を怠ったことが原因でしょうが、

 当時の民営化は、必ずしも合理化じゃなかった様ですね。

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