【江戸雑学草子】 第44回
2004年04月06日
江戸三千両(二丁町)
魚河岸、吉原とならび1日千両のお金が落ちる芝居町の二丁町(にちょう
まち)のお話です。
現在の人形町3丁目の一角に、堺町(さかいちょう)と葺屋町(ふきやち
ょう)と言う隣り合った町がありました。
堺町には、奉行所から正式に興業を認められた江戸三座の筆頭の中村座が
あり、ほとんど隣り合った状態で、市村座が葺屋町にありました。
もう一つの森田座は、木挽町(こびきちょう)ですから、現在の銀座3丁
目でも、昭和通りより東で、歌舞伎座の裏手になリます。
大手町から、JRのガードを越えて、三越新館の脇を通り、中央通り、昭
和通りを超え、人形町通りとの交差点から浜町に抜ける、芳町通りと言う
道があります。
日本橋方面から行くと、人形町の交差点からちょっと手前の芳町通りから
1本ぐらい入った、路地より広めの道があって、そこらあたりが、葺屋町
と次いで堺町があったようです。
そんなに広い通りでないから、こんなところに、芝居茶屋がひしめき、大
勢の見物人が来ていたとは想像がつきません。
江戸の地図が手元にあるんですが、堺町と葺屋町は見つかったが、そこに
は、中村座も市村座もありません。
地図が、嘉永年間に初版がでたものですから、中村座、市村座は、その前
の天保の改革で浅草猿若町(さるわかまち)に移転させられました。天保
13年(1842)の事ですから、地図に載っていないのが当然です。
さて、気になるのは入場料金ですが、これが幾らって決まりがない。
芝居の人気度で金額が決まっていたそうです。
桟敷は、銀30〜40匁(もんめ)だそうだが、
見当がつきませんので補足して説明しますと、...
銀60匁が金1両で、一人前の大工の給料が1ヶ月2両でしたから、
月の収入の四分の一に近い出費になります。
歌舞伎座の4月の出し物が、「白波五人男」で、一等席が14,700円と
なっておりますが、それよりずーっと高い感じではないでしょうか。
芝居見物は、身分を超えた娯楽で、町人のとなりに旗本が座っていること
もあったんです。
大名だって、見に行くことをはばかるが、役者や芸人を自分の屋敷に招い
て芝居を楽しんだそうですよ。
その大名も、隠居すればいつでも見に行けたようですな。
五代将軍綱吉の用人として、権力を我が物にしたと言われる柳沢吉保の孫
柳沢信鴻(のぶとき)はえらい芝居好きだったそうです。
安永2年(1773)から天明5年(1785)の15年間の出来事を、柳沢信鴻
が自らつづった「宴遊日記」には、たびたび芝居の話が出てきます。
大名を息子に譲って隠居し、今の六義園である駒込の屋敷に住み、芝居の
脚本を書いたり、家来たちにそれを演じさせたり、もちろん中村座には、
たびたび通っていたそうです。
朝4時ごろ駒込を、家来の侍や女中を4〜5人つれて出発し、午前6時頃
に日本橋に到着し、茶屋に入って朝食を食べ、芝居見物の後、屋敷に戻っ
たのが午後9時だったと日記に書いてあります。
三省堂刊「江戸ことば450語」によると、千両とは8千万円ぐらいだそ
うですから、百万都市で一日8千万円の売上は大したものです。
もちろん、中村座と市村座だけで8千万円の売上ではなく、その周りには
芝居見物の前後に寄る芝居茶屋の売り上げも含まれます。
芝居茶屋と言っても、高貴な方々も利用するわけだから、一流の料亭と言
っていいお茶屋もありました。
さて、吉原ですが、話題が多すぎて、何を話すかちょっと悩みますね。
向島に花見と偽って、下見にでも行って来るかな。
参考文献:「江戸文化誌」西山松之助、岩波書店
|