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【江戸雑学草子】 第49回

2004年05月25日

仇討ち

 いきなりで恐縮です。
 以下のものは漢詩の様ですが、隠語で書いた碑文です。
 まず、ご覧ください(縦書)


       湛  同  二  癸き
       乎  有  人  卯う
       無  下  不  天
       水  田  戴  明
   南   納  十  九  陽
   畝   無  一  人  月
   子   絲マ 口  誰  八
        マ

 誰が書いたかは、「南畝子」と書いてあるから一目瞭然。
 蜀山人こと太田南畝(なんぽ=直次郎)です。


 では、なぞ解きと参りましょう。


 癸卯天明陽月八は、天明三年十月八日


 二と八で天、人ベンに九で仇、
 これで不倶戴天(ふぐたいてん)の仇になります。
 誰とは、どちらが仇かわからないがほどの意味です。


 同の字の下に田の字で、冨。十一と口で吉だから、冨吉。


 続いて、敵の名前です。
 湛に水無し、納に糸が無く、すると甚内になる。


 つまりどちらに非があって仇になったかは知らんが、
 冨吉と甚内、不倶戴天の二人がここでばったり顔を合わせた。
 そして仇討ちがおきた。と、言う意味です。


 太田南畝ほどの江戸の文化人が、なぜ、隠語でしかもわざわざ仇討ちの碑
 文を書いたのだろうか?


 まず、隠語で書いたのは、太田南畝は七十俵五人扶持の卑職と言えど、幕
 府御家人としての立場があるから、あからさまに事件の事を書けません。


 しかも、幕府は血なまぐさい事件を公にする事は御法度としていましたか
 ら、仇討ちの核心にふれる事ができません。


 でも、庶民は事の委細を噂で知っているわけだし、「天明紀聞」にも簡単
 に記事が載っています。


 碑文にあるように、天明三年(1783)十月八日、場所は神楽坂肴町
 (さかなまち)の路上。


 二十代後半と見られる冨吉が、五十がらみの侍(甚内)に向かって、


 「親の仇、抜け」と声をかけた。


 甚内は、逆に冨吉にむかって斬りつけたが、
 冨吉の太刀先は鋭く、甚内はあわてて近くのお寺に逃げ込んだ。


 冨吉も、甚内を追って境内に駆け込み、声を掛けて甚内が振り向いたとこ
 ろを、真っ向から一太刀浴びせて唐竹割に切った。


 冨吉は、十五〜六の時に江戸に出て、当時江戸随一の剣客について神道無
 念流の居合を学んだわけだから、その腕前は大したものだったようです。


 やはり、「なぜ仇討ちを」の話をしなくっちゃなりませんね。
 ちょっと、久々に長くなります。ご辛抱ください。


 その、仇討ちから遡ること十六年、明和四年(1767)下総の相馬郡早
 尾村の百姓庄蔵が、ふとした口論の末、組頭甚内に切られて命を落として
 しまいました。


 庄蔵の長子冨吉は当時十二歳。


 甚内は、さすがに村に居づらくなり江戸に出奔した次第です。


 冨吉は、その後を追って江戸を出て、剣の腕を磨きつつ、仇の甚内の消息
 を求めて探し続けたのです。


 その一念が通じたのか、ある日冨吉は、神楽坂上で甚内らしい男を見かけ
 た。その時は機会を逃がしたが、運命の日、十月八日が来たわけです。


 さて、仇討ちの現場のお寺は、行元寺(ぎょうがんじ)と言います。


 ふだんは太平楽の江戸市中に久しぶりの仇討ちですから、事件はたちまち
 評判を呼び、行元寺には現場を一目見ようという見物人で連日押すな押す
 なの大にぎわいになりました。


 もうお賽銭が余って余ってしょうがないからと、行元寺の和尚は、石碑を
 建てることを思いついたのです。


 さいわい近所に、太田南畝の住まいがあり、彼に碑文を書いてもらうと、
 和尚はその旨太田南畝にお願いにあがったのです。


 太田南畝は快諾し、型どおり観音経の一句を碑面に書きました。


      還げ   念ね
      著ん   彼ん
      於じ   観ぴ
      本や   音か
      人く   力ん
       お    の
       ほ    ん
       ん    り
       に    き
       ん


 それから、十五年の歳月が経ち、行元寺は再び話題になります。


 と言っても良い噂でなく、寛政十年(1798)の「寛政紀聞」に、行元
 寺のご開帳(見せ物をダシに参拝人を集めるイベント)として、鯉のハリ
 ボテを飾ったにかかわらず、さっぱり参拝人が来なかったと記されていま
 す。


 それからまた十七年経った文化十二年(1815)。鯉のハリボテでは参
 拝人が集まらず落ち目一方の行元寺は、仇討ち事件はほとぼりも冷め、あ
 の石碑を今一度売り出そうと、再度太田南畝に新しい碑文を書いてもらう
 ことにしたわけです。(碑の裏側です)


 なにせそのころ、江戸中に知らぬ人はいない超一流の文化人太田南畝が書
 いたと言うだけで人を呼べるというものです。


 それが、文頭の漢詩かなにかわけの分からない碑文です。また、その意味
 を、南畝自身が書いた「一語一言」の「牛込行元寺復讐の碑」にある謎解
 き抜きでは、誰も解析出来なかったでしょう。


 江戸市中で起きた仇討ちとして忠臣蔵がありますが、どうやら、仇討ちは
 そうめったにあるものじゃ無かったようです。


 第一、武士が刀を抜くこと自体、よほどの事ですし、
 刀で解決する事は恥だとされていました。


 だからこそ、仇討ちの話題だけで人が呼べたのでしょう。


 そう言えば、仇討ちにからんで、こういう話があります。


 時代は明らかではありませんが、
 浅草の浅草寺の境内で、がまの油売りが、その効能をまことしやかに、
 抜き身を使って口上を垂れておりました。


 そこに、初老の侍が、自分の古傷にも効くか試してほしいと
 申し出ました。


 がまの油売りは快く受けましたが、その傷の由来を聞いている内に、
 その侍が親の仇と言うことが分かった。


 がまの油売りは、さー立ち会えと構えた。


 なんせ、浅草寺の境内の中!
 大勢の参拝人のいるところでの仇討ち騒動だから、
 瞬く間に、人が集まった。


 三社祭りの宮神輿のまわりに群がる担ぎ手の数ほどの人数だ。
 後ろの方の人は、人垣の中で何が起きているか皆目分からない。


 ところが、その侍は、浅草寺の境内を血で汚すわけにいかないし、主人の
 使いの途中であるから、それをすましてからにして欲しい。また、もう老
 いの身で覚悟は出来ているから逃げはせぬ。そこで、明日高田馬場で決着
 をつけようと言った。


 がまの油売りも納得し、では明日高田馬場と言うことに事がおさまった。


 ところが、おさまらないのは見物人です。
 本物の仇討ちなんてめったに見られるものじゃないから、
 翌日、近所や仲間を誘って、いざ高田馬場へと、弁当など用意して、
 向かったわけです。


 もう、皆さんピクニック気取りで、
 高田馬場周辺の茶屋はにぎやかってもんじゃない。
 ごったがやしております。


 酒が売り切れる店が続出。


 でも、仇討ちは一向に始まらない。
 ひょっと、わきを見ると、昨日の侍に似た老人が一人で
 酒を飲んでいる。


 あんたは、昨日の?と、問うと、
 ああ、そうだよと、答えた。


 きっと、この世の別れに酒を飲んで、へべれけに酔って
 わけの分からないうちに切られてしまおうと言う魂胆らしい。


 だが、酔った侍の口から出た言葉を聞いてビックリ!


 つまり、仇討ちなんて鼻っからない。
 浅草寺の一件は、全部芝居で、がまの油売りは息子だと。


 一騒動起こして、こうやって高田馬場に人を呼び、
 まわりの茶屋から、上がりの2割をいただくと言うのが
 この侍の職業で「仇討ち屋」と自ら呼んでいる。


 仇討ちで商売が出来る、平和な江戸ですが、
 なに言おう、これは、落語「高田馬場」の一節でございました。
 えっ、へへーッ!


 でも、太田南畝の碑文は本物です。
 この碑は、現存しておりますが、神楽坂じゃありません。


 行元寺は、明治四十年の地区改正の時、碑もろとも目黒不動尊の近くに移
 転しております。


      参考文献:「江戸東京《奇想》徘徊記」種村季弘、朝日新聞社

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