【江戸雑学草子】 第52回

2004年06月26日

スーパーマン・初代市川団十郎

 十一代目市川海老蔵襲名披露・六月大歌舞伎は、本日(6月26日)
 に千穐楽(せんしゅうらく)を迎えます。


 前評判がすこぶるよく、歌舞伎座に予約の電話が殺到し、
 築地のNTTの交換機がパンクして何度も不通になったらしい。
 こんな事は、近年なかったそうだから、えらい人気です。


 海老様として人気のあった十一代目団十郎は、
 現(新)海老蔵のお祖父さんです。 
 が、それをしのぐ実力を期待されての襲名披露という感じがします。


 この襲名披露を見に行った、熱烈な歌舞伎ファンの八重洲のAさんは、
 「まだ、人気先行だね」とおっしゃってましたが、
 それは、当たり前の話ですから、うっちゃっといて、
 伝統芸能を超えた、今の観客を楽しませる芝居を考えてくれるでしょう。


 それが、成田屋、市川宗家の伝統なのです。


 つまり、江戸歌舞伎の特徴「荒事(あらごと)」の創始者としての初代。

 上方風の「和事(わごと)」を取り入れ、現代の形を作り上げた二代目。

 リアリズムを追求した七代目。

 歌舞伎を芸術にまで盛り上げた九代目。


 これから何回かに分けて、
 彼ら、歴代の団十郎を語りつつ、人気の秘密を探りましょう。


 海老蔵襲名記念!市川団十郎物語でござーーいーー。


 初代団十郎は、役者をまったくずぶの素人から、スタートしました。


 一番有力な説によると、

 市川家は、甲州の士で、小田原の北条氏に仕えていました。

 北条氏が滅びた後、下総(千葉)の幡谷(はたがや)村に移って郷士になりま
 したが、団十郎の父・重蔵の時代に、二丁町(にちょうまち)に近い泉町に
 移り住みました。(嘉永三年)の地図を見ますと、堺町・葺屋町のまっ近所
 です)

 重蔵は、なかなかの利け者で、地主組合の組合長になり町の顔役でした。


 そう言ったバックグラウンドが、荒事(あらごと)を生み出す素地になった
 のでしょう。


 そして、どういう経過か、記録がありませんが、

 それまで名乗っていた海老蔵を段十郎に改め(のち元禄六年十一月団十郎)
 突如、中村座に表れます。

 延宝元年(1673)、海老蔵14歳の時です。


 紅と墨で顔に極端なメークを施す隈取(くまどり)というのをして、
 大柄の童子格子(どうじごうし)の衣装に丸ぐけ帯、
 斧(おの)を持ってあらわれ、

 大江山の場で大勢の猟人(かりゅうど)たちと大立ち回りを
 演じたのが「四天王稚立(してんのうおさなだち)」の
 坂田公時(さかたのきんとき)で、絶賛を博しました。


 とにかく誇張されたスーパーマンとして、
 痛快な豪傑ぶりと、正義感あふれた破邪顕正(はじゃけんせい)ぶりを
 演じたのでしょう。


 この舞台は、当時江戸で大評判の金平浄瑠璃(きんぴらじょうるり)を
 歌舞伎化したものだと言われています。


 金平浄瑠璃とは、岡清兵衛が作品を作り和泉太夫が語った
 豪快勇壮な語りものによる人形劇で、

 小道具の岩を砕いたり、人形の首を引きぬいたりして、
 かなり荒っぽいものでした。


 物語は、大江山の鬼退治をした源頼光(みなもとのらいこう)が率いる
 四天王渡辺綱、坂田金時などに代わって、

 その子供たち渡辺竹綱、坂田金平(きんぴら)、卜部(うらべ)末宗、
 碓井定宗らの少年四天王がスーパーマンとして活躍します。


 もちろん、その少年四天王の中で一番スーパーなのが金平で、
 団十郎は金平そのものを演じたのではなく公時(きんとき)で、
 題名を「四天王稚立(してんのうおさなだち)」にして、
 少年武勇伝を舞台いっぱいに展開したと思われます。


 無邪気で、正義感の凝り固まりで、権力(悪)の横暴に正面から戦い
 天下無双の武力を発揮するする少年とは、いつの時代にも、
 洋の東西を問わず、語りつがれてきた一つの形です。


 そう、ハリーポッターやピーターパンを思い起こしていただくと、
 よろしいでしょう。


 少年スーパーマンを主役に据える事は、子供たちだけでなく、多くの民衆
 の人気をつなぐための秘密なのです。


 また、日頃から権力等の圧力に屈している我が身を、
 主人公に置き換える事によって、大いに癒しとなります。


 なんだ、ただの物まねじゃないかと思われるかも知れませんが、
 大歌手美空ひばりのスタートは、笠置静子の物まねだったし、
 当然の事と理解できます。


 さて、絶好調の滑り出しを果たした団十郎は、しばらく金平ものを続け、
 江戸歌舞伎の特徴である「荒事(あらごと)」を確立していきます。


 引き続き、延宝三年(1675)五月の山村座で、
 「勝鬨誉曾我(かちどきほまれのそが)」に出演して、曾我五郎時致
 (ときむね)の型を作り出します。


 そして、

 「不破(ふわ)」「鳴神(なるかみ)」「暫(しばらく)」「嫐(うわなり)」
 「象引(ぞうびき)」「勧進帳(かんじんちょう)」

 など、

 後世(市川家)歌舞伎十八番と言われる傑作を次々に演じていきます。

 これらの大部分は自作自演で、今でもしばしば演じられます。


 江戸歌舞伎に限らず、歌舞伎全体のエポックメーカーとして
 の天才団十郎の幕切れは、えらくあっけないものでした。


 宝永元年(1704)二月、前年の地震による火災で焼け落ちた市村座の
 再建されたこけら落としのめでたい興業のさなか、
 楽屋で生島半六によって刺殺されました。


 享年45歳。働き盛りでした。


 半六の実子が団十郎に虐待されたのを根に持っての犯行だった様ですが、
 そこに、初代団十郎の人間性もうかがえます。


 前代未聞の八百両役者は、芸のみに執着し
 心を許せる仲間も持たず、いつも孤立していた様です。


 ただ、その創造物は、300年隔てた今も生きています。


 参考文献:「市川団十郎」西山松之助、吉川弘文館 昭和62年新装版